名古屋城について

名古屋城の概要

名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。 大坂城、熊本城とともに日本三名城に並び称され、伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われている。大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の町の象徴にもなっている。 大小天守や櫓、御殿の一部は昭和初期までは現存していたが名古屋大空襲(1945年)によって天守群と御殿を焼失し、戦後に天守などが復元され、現在城跡は名城公園として整備されている。

名古屋城の歴史・沿革

戦国時代
16世紀の前半に今川氏親が、尾張進出のために築いたとされる柳ノ丸が名古屋城の起源とされる。この城は、のちの名古屋城二の丸一帯にあったと考えられている。1532年(天文元年)、織田信秀が今川氏豊から奪取し那古野城と改名された。 信秀は一時期この城に居住し、彼の嫡男織田信長はこの城で生まれたといわれている。のちに信秀は古渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが、1555年(弘治元年)、信長が清須城に本拠を移したため、廃城とされた。

江戸時代
清洲城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の合戦以降の政治情勢や、水害に弱い清洲の地形の問題などから、徳川家康は1609年(慶長14年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定。1610年(慶長15年)、西国諸大名の助役による天下普請で築城が開始した。 佐久間政実ら5名、作事奉行には大久保長安、小堀政一ら9名が任ぜられた。縄張は牧野助右衛門[1]。石垣は諸大名の分担によって築かれ、中でも最も高度な技術を要した天守台石垣は加藤清正が築いた。天守は作事奉行の小堀政一、大工頭には中井正清と伝えられ(大工棟梁に中井正清で、岡部又右衛門が大工頭であったとの説もある)、1612年(慶長17年)までに大天守が完成する。 清洲からの移住は、名古屋城下の地割・町割を実施した1612年(慶長17年)頃から徳川義直が名古屋城に移った1616年(元和2年)の間に行われたと思われる。この移住は清洲越しと称され、家臣、町人はもとより、社寺3社110か寺、清洲城小天守(下記にあるように、名古屋城内西北隅櫓が相当するか)も移るという徹底的なものであった。 1634年(寛永11年)には、徳川家光が上洛の途中で立ち寄っている。

近代
明治維新後、14代藩主の徳川慶勝は新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出た。しかしドイツの公使マックス・フォン・ブラントと陸軍第四局長代理の中村重遠工兵大佐の訴えにより、山縣有朋が城郭の保存を決定。このとき、天守は本丸御殿とともに保存された。 1872年(明治5年)東京鎮台第三分営が城内に置かれた。1873年(明治6年)には名古屋鎮台となり、1888年(明治21年)に第三師団に改組され、終戦まで続いた。 保存された本丸は、1891年(明治24年)に、濃尾大地震により、本丸の西南隅櫓や多聞櫓の一部が倒壊したが、天守と本丸御殿は大きな被害を受けなかった。1893年(明治26年)、本丸は陸軍省から宮内省に移管され、名古屋離宮と称する。その後、名古屋離宮は1930年(昭和5年)に廃止されることになり、宮内省から名古屋市に下賜された。 名古屋市は恩賜元離宮として名古屋城を市民に一般公開し、また建造物や障壁画は国宝(旧国宝)に指定された。太平洋戦争時には空襲から金鯱を守るために地上へ下ろしたり、障壁画を疎開させたりなどしていたが、1945年(昭和20年)5月14日の名古屋空襲により、本丸御殿、大天守、小天守、東北隅櫓、正門、金鯱などが焼夷弾の直撃を受けて大火災を起こし焼失した。米軍はあくまで誤爆だったとしている。

現代
戦後、三の丸を除く城址は、北東にあった低湿地跡と併せ名城公園とされた。園内には、戦災を免れた3つの櫓と3つの門、二の丸庭園の一部が保存された。また、一部の堀が埋め立てられるなど改変も受けているが、土塁・堀・門の桝形などは三の丸を含めて比較的よく残されている。 天守は、地元商店街の尽力や全国からの寄付により1959年(昭和34年)に再建されて、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなった。 天守に続いて本丸御殿の復元が計画されたが、実現の道のりは遠く、バブル崩壊等の資金難で一時は中止の危機に瀕したこともあった。 市民ボランティア団体「本丸御殿フォーラム」が1994年(平成6年)5月14日に設立され、2002年(平成14年)から再建基金の寄付を募った。 2007年(平成19年)本丸御殿復元の許可が文化庁よりあった。 現在、2008年(平成20年)に再建工事を着工し、2010年(平成22年)における第一期工事のうちの玄関部分の復元が計画されている。またこれにあわせて、戦災を免れた障壁画の復元模写も同時に進められる予定である。  2022年(平成34年)完成を目指して総工費150億円が投じられて復元される[2]。 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(44番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』